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1963〜 「目に見えて商店街がダメになった」
──そんな商店街が変わってきたのは、いつの頃からですか?
中村さん:よく言われるのがJR「千葉駅」が移転した頃。もう一つは1963年頃にそごうさんが進出してきてから変わりましたね。当初『そごうによって地元商店街は35%売り上げが減るよ』と聞いたのですが、まさかそんなこと無いだろうと話していたら、本当にそれ以上減ってしまいました(笑)。そごうさんが出来ると、人通りが極端に少なくなりましたね。駅周辺で全て済んでしまうので当然買い物にくる必要がなくなったんです。また、例えば当ビルの近くにあったパスポートを取る旅券事務所もそごうさんのビルの中に入りましたし、そうした様々な外的要因といいますかね、それでずいぶん変わってしまったんです。
──かつて千葉銀座周辺にあった4つのデパート(奈良屋・扇屋・十字屋・田畑)がそごう進出とともに、あっけなくなくなってしまった。商店街の打撃も深刻だったでしょうね。
中村さん:そごうさんが出来てからは大分苦戦しましたね。第六地区の商店街の方々は頑張っていられたけれども、それもどうしようもなくなってきて。一軒抜け二軒抜け…。あるいは従業員さんがいたお店は、どんどん人が少なくなっていき…。目に見えてそういう形ですから、やはりみなさん商店街で集まると悩みは同じでしたね。
1990〜 再開発に望みを託して
──このままだと暮らしていけない…。そして再開発を検討するようになっていったんですね。
中村さん:そんな折、商店街の集まりで再開発というものを聞きまして、千葉市役所の中には当時「都市再開発課」という課があり、ちょっとお話を聞きましょうということで来ていただき、何人かの前で再開発についてお話を伺いました。それが平成2年(1990)のことですね。再開発組合のスタートです。そして有志で集まり、商店街の再開発について研究し始めました。A〜Mぐらいの各ブロックで分けて、それぞれ立地が違えば再開発の手法も違いますから、それぞれのブロックで再開発についてお勉強をしましょう、と。実はこの第六地区というところはAから数えてKブロックとLブロックだった。当初は確かKL街区再開発研究会というのが、一番最初だったと思います。その後、研究会が協議会に変わり、準備組合に変わって組合に変わった。こういう流れになります。
──もともと研究会というのは千葉市が主導して始まったものだったのですか?
中村さん:いや、商店街で自発的に仕掛けました。ブロックごとに分けて、それぞれで勉強するお膳立てをしたのです。誰しも悩みが一緒ですから、その解決策についてはブロックごとに合ったものを考えましょうと決めました。それで再開発課の指導により『準備組合になると活動費の補助が出たり、あるいはコンサルタントの派遣があるよ』といったアドバイスによって、より話が具体的になってきたんです。そこから試行錯誤、さまざまな視察がありましたね。今考えてみますと、視察の目的はいろんな新しいモノを見るということも確かにありました。しかしそれ以上に人と人の繋がり、特に街区内の結束のようなもの、これはかなり大きかったですね。人間関係がまとまっていたから、一つの目的に向かって進めたんです。
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