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きぼーる便り

第1回 きぼーる(希望)という名の再開発

中村 知司 Tomoji Nakamura
(千葉中央第六地区市街地再開発組合・副理事長)

千葉に住む人は、古くから住んでいる人ほど千葉中央第六地区を懐かしむといいます。そう、千葉中央第六地区は、かつて花柳界の中心地であり、多くの人が集まる賑やかな場所だったのです。
今回からスタートする「Qiball(きぼーる)便り」では、再開発事業に携わった方々に登場していただき、これまでの、そしてこれからのきぼーるについて、様々な角度から語っていただきます。
第1回は、生まれた時から第六地区に住み、最近まで和装履物屋を営み、現在は千葉中央第六地区市街地再開発組合・副理事長を務める中村知司さんに登場していただき、再開発までの経過をお話してもらいます。

1950 「華やかだった千葉」

──中村さんのお父さんが千葉にやってきたのはいつ頃になりますか?

中村さん:千葉の第六地区には昭和22年(1947)に越してきました。それまでは代々、東京の日本橋で履物屋をやっておりました。父の兄、長男が日本橋で店をやっていたんです。それで父は次男だったので、そこから独立というか支店のような形で戦後の千葉に来ました。

──かつて千葉中央第六地区は活気があったと伝え聞いているのですが…?

中村さん:私が子供の頃、昭和30年くらいは戦後一時、まるで戦前に戻ったような現象がいろんなところで起きました。ですから花柳界も賑やかでしたね。もともと千葉というのは軍都でありまして、軍人さんが多かった。千葉大という大学病院があったんですが、両方とも男性しか入れなかったんですよ。男性の街というと、どうしても花柳界が出てきますよね(笑)。
第六区地区は、市内というより県内でたぶん一番の繁華街だったと思います。国鉄「千葉駅」(現・市民会館)があり、京成「千葉駅」(現・中央公園)があり、市役所があり、その後ろが県庁。その一本の流れが黄金のラインとなっていますから、どうしても人が通る。そして扇屋と奈良屋という地元のデパート、これが商業の核でしたね。当時は郊外には何も無いですから、当然人は集まりますし、買い物って言うと1日がかりで大勢の人がここにやって来たんです。そういう意味では人が集まる要素はたくさんあったのですね。
子供の頃記憶しておりますのは、車道を背に歩道に露店が並んでいたんですね。露天が並ぶほどに人通りが多かったんです。人ごみで、自転車に乗ったままでは、家には帰れなかったほどですね。
それと「千葉銀座通り」というパルコの前の通りですが、この2つの商店街は、市内はもとより、県内でも最大の商店街だったと言ってよかったでしょうね。